『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

脱ハンコと珍名字

ハンコ

 

ちかごろ脱ハンコが議論されている。経済的なインパクトや、印章の学術的な意味合いなどはよく分からないが、これについて少しく思うところを書いておこう。

 

 

■ 珍名字にとってのハンコ

ぼくの名字は全国で30軒ほど、人数にして100人程度という中途半端に珍しい名字である。全国で1軒だけだったり、画数がやたらに多いというのだったら、メディアの珍名字特集などで採り上げられるのだろうが、そこまで珍しいわけでもないから始末が悪い。

 

由緒や来歴はそれなりにあって、『太平記』の記述によれば、かの足利尊氏鎌倉幕府追討の挙兵に及んだ折、六波羅探題を攻める際の呼びかけに応じて馳せ参じた武士の1人が、我が家のものと同一の姓であるので、どうやらその辺までさかのぼることはできそうである。

 

珍しい名字によくあることだが、市販のハンコがすぐ手に入らないのである。百均や文具店、ホームセンターなどによく置いてあるような、名字ごとの穴にハンコが入っていて五十音順に並んでいるあのタワー型のショーケースには、絶対にラインナップされていない。見かけるたびに淡い期待を抱いて探してみるけれど、いつも空しく立ち去ることになる。

 

福岡には品揃え日本一のハンコ屋さんがあるらしいので、機会があればぜひ行ってみたい。きっと同じような気持ちの珍名字の人が、連日のように我こそはと訪れていることだろう。珍しい名字の家に生まれた人とうのは、それなりにプライドというか自負のようなものがあるから、在庫があったらむしろ機嫌が悪くなるやもしれぬ。

 

しかし、そんなハンコ屋さんなど自分の家の近所にそうそうないのであるからして、三文判シヤチハタのネーム印などは常に複数常備しておくことになる。試しにいま持っているハンコの数を数えてみた。

以上、ざっと数えただけでも6本である。これは確かにちょっと多すぎかなと自分でも思ってしまうが、必要なときにすぐに手に入るものではないという、ある種の強迫観念のようなものがあるものだから、タイミングがあると作っておいてしまうのである。仕事柄よく使うものであるというのもある。

 

ハンコを常に準備しておく必要がなくなるという意味において、現在の脱ハンコの流れは基本的には歓迎すべきことである。

 

 

■ 「珍しい名字ですね」「ええ、ハンコは常に特注でして」

珍しい名字だと、初対面の人とはたいてい名字の話から入ることになる。

 

「よろしくお願いします」

「こちらこそ。へぇ~、変わった名字ですね」

「そうなんです。もう目立ってしょうがないです」

「かっこいいじゃないですか」

「どうでしょうね、ハンコとかも特注しないといけないし、良いことありませんよ」

 

これまでの人生で、いったい何度このやりとりを繰り返してきただろうか。変わった名字の人なら多かれ少なかれ同じような経験があるはずである。

 

珍名字の側は、ネガティブな発言をしているようでいて、その実「目立つから悪いことはできない」とか「ハンコは特注ですし」といったセリフの中に、自身の善良性や希少性のアピールが入っている。すでに書いたとおり、珍しい名字の人は自分の名前に対してそれなりの自負があるので、「ハンコは特注」と発言することによって自己のアイデンティティーを見出している部分も少なからずあるのではないかと、ぼくは考えている。

 

 

■ 見直すべきは「慣習」であり「文化」にあらず

日常の書類を確認するための意思表示の意味で、必須条件としてハンコを求めるのはもはや無意味である。これだけリモートワークが世の中に広まったのに、ハンコがないから決済できないなどというのは馬鹿げている。これは、ハンコ文化の是非が問われているのではなく、ハンコが押せない状況になっているにもかかわらず、ハンコが押されていないと処理できないと主張する連中の頭が固すぎるということに問題の根本があるのだ。

 

字を書ける人がまだまだ少なかった時代であれば、署名の人物がその書類の内容に同意したかどうかを、ハンコの有無で確かめることができた。現代においても、行政書士司法書士などの専門家に作成を依頼しなければならない書類はそれなりにあって、そこにはたいてい「実印」が押される。実印とは、行政機関に登録している唯一無二のハンコであって、それが押された書類というのは、法的に非常に重い意味をもつようになる。ところが、インターネットの発達と、株式をはじめとした有価証券のような書類の電子化が進みつつあったところへ、現在のコロナ禍が起こり、いわゆるリモートワークが広まるにつれて、書類に判を押すことの意味が問われるようになったのだ。

 

ゆえに、もう日常の書類にはハンコは押さないことにすればよい。会社の稟議書から宅配便の受け取りにいたるまで、もう一切ハンコは押さない。何らかの事情で署名ができない人・場合にだけ、代用品としてだけハンコを使うということにする。そんなふうに普段使いで判を押す機会を減らせば、必然的に非常に重要な局面でだけハンコを使うことになる。つまり、ハンコを使う機会に希少性を持たせることで、ハンコそのものの価値を高めることができるのである。

 

加えて、今のように実印・銀行員・三文判と、それぞれに用途が分かれていることも事を複雑にしている要因のひとつである。だから、各自が作る印章は1本だけにして、それを行政機関にも登録し、本人身分の証明とすればよいのである。印章というのは文化であり伝統工芸でもあるのだから、さまざまな書類が電子化・デジタル化する流れとともに消えてしまうのは忍びない。

 

よって、各々がもつ印章は1つだけにするにしても、そうやって作る印章は、まさにとっておきのものにすればよい。素材、大きさ、印面の字体、印章全体の装飾からにぎった感触にいたるまで、それはそれはこだわったものを特注すればよいのだ。それに、このさき技術が進歩すれば、印面・印影に生体認証データを組み込んだりすることも、そのうちできるようになるのではないかとぼくはにらんでいる。

 

この機会に、そういうふうな新しいハンコの在り方が生まれればよい、と思ったりするのである。