『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

ハリポタ全巻 大人買い

■ 版型選び

ハリー・ポッター』シリーズは、ぼくの読書に対する見方を変えてくれた本である。


高校生のときにこの本と出会っていなければ、ぼくはおそらく今でも本を読まない人間だったことだろう。となると、こんなふうにブログも書いていなかっただろうし、人生は、もっとつまらないものになっていたことだろう。

 

ハリー・ポッター』シリーズは現在、5つの版が世に出ている。
静山社から最初に出版されたハードカバーの単行本。
携帯版と称する四六判サイズ。
静山社ペガサス文庫と称する新書サイズ。
文庫版。
そして、表紙や挿し絵が新しくなった新装版である。

 


原書もまだ未完結だった頃から読み始めたぼくは、最初の単行本をずっと所有していた。もう数えきれないくらい、それこそ暗記するほど読み込んだために(実際、第1巻の冒頭数ページは諳じることができた)、小口は手垢で黄ばんでしまっていた。

最初の単行本は児童書として出されただけに、サイズが少し大きくて収納に限りがあるのと、あとでも触れるが翻訳上の諸問題があるために、脳内で文章を補正しながら読まなければならなかった。


そこで、この機会に買い換えることにしたわけだが、どの版にするか迷うところである。

まず携帯版は却下した。単行本のときに、ぼくにとって看過できない表記ゆれがあったのだが(最後の章で、ダンブルドア校長がハリーのことを一度だけ「おまえ」呼ばわりするのだ。ほかは全部「きみ」って言ってるのに!)、それが携帯版でも修正されていなかったのである。これはいただけない。いったい何のために別版を出したのか。

 

となると、新書サイズの「ペガサス文庫」にするか、文庫版にするか、ということになる(もうひとつの選択肢だった「新装版」は、そのときまだ最終巻まで出ていなかったのだ)。迷いに迷った挙げ句、ぼくは文庫版を買うことにした。

決め手は挿し絵である。

日本で最初に出た単行本には、章ごとの扉ページに挿し絵がある(翻訳者、松岡佑子氏の友人の筆によるものである)。イギリスで出版された「原書」には挿し絵は存在しておらず、なんというか、これは好みの問題なのだが、ぼくはあまりそのタッチが好きではなかった。「ペガサス文庫」では各巻の表紙にその絵が採用されているのだ。

 

文庫版のほうは、作中のアイテムで(あまり詳しくないが、あれは映画版の小道具だろうか)のイメージ写真で、登場人物についての余計な情報が入ってこない。映画はほとんど見ていないが、そこは何と言っても『ハリー・ポッター』シリーズ、自身の想像力をかきたてる要素には事欠かない。あとは、巻数の問題から、総額が一番安くなるということも、無視はできない。

 

 


大人買い、その後の顛末

せっかくなので、文庫版は専用の箱入りで買うことにした。専用の箱といったが、材質はボール紙である。
まえの単行本11冊は、はじめブックオフに持っていって断られ、リサイクルショップでやっと処分できた。もともと期待はしていなかったが、買取金額500円と言われて何も感じなかったわけではない。

 

それはさておき、文庫版全巻セットを購入したのがお盆前、盆休み中に全巻読みきる算段であった。届いた文庫版を自身の書棚に並べたときの喜びはひとしおである。ぼくは嬉々として読み始めたのである。

 

ところが。

 

この文庫版についてファンとしての結論を言うと、「買い換えて非常に満足したとは言えない」である。

 

本文がいろいろと修正されているのは良いのだが、その一方で、もともとの単行本のときにあった文体というか、リズム感のようなものが欠けてしまっているところがあって、妙なところで肩透かしをくらうことが読んでいるとあるのだ。それについては好みの問題もあるので、まァ許容しよう。

 

問題は、ぼくが知っているだけでも誤字脱字を2か所も発見した事実である。これは読んでいて非常に興が削がれる。物語への没入感が妨げられるのである。


改訂版を出すのなら、現行の本文を徹底的に見直し、誤字脱字、表記のゆれ、文法上の間違いなどを限りなくゼロに近づけるための作業があってしかるべきである。

もちろん校正はしてあるだろう。シリーズ全体の総文字数は膨大で、そのなかで誤字脱字が2か所だけなら許容してもよいのでは、という意見もあるかもしれない。


しかし、相手は天下のハリポタである。世間でオワコンだなんだと言われようと、そのファンの数はまだまだ計り知れない。むしろ、いまでも読んでいるのは一定レベル以上の熱意をもっているファンである。ゆえに、その表記には細心の注意を払ってもらいたい。とくに、この作品は『指輪物語』や『ナルニア国物語』のように、後世に残すべき古典としての価値を期待されているのだ。内容は完璧を追求しなければならない。

 

 

■ 訳者ではなく編集者の質を問う

そもそも、最初の単行本が出たときから、表記のゆれはもとより、明らかな誤訳や、邦訳文そのものが現代日本語にそぐわず古くさいなどといった批判、リリーがペチュニアの姉なのか妹なのか、これら翻訳上の諸問題が読者の間で云々されてきたが、いつもやり玉に上がるのは、翻訳者である松岡佑子氏である。それは主たる訳者である以上、仕方のないことでもある。

 

だが、出版業界に身を置いていたことのあるぼくに言わせれば、これらは執筆者ではなく、編集技術上の問題なのである。表記のゆれや文法上の間違いを指摘するのは編集者の仕事である。同人誌ならば、その文責はすべて作者に依拠するものだが、これは商業出版なのだ。出版社をとおして世に出す以上、原稿を完璧に近づける役割は編集者にある。


だが、その点についても要因は見えている。出版社の規模の問題である。

ハリー・ポッター」日本語版を出している静山社は、訳者の松岡佑子氏が代表を務める小出版社で(当時)、人数面で零細企業の多い出版業界のなかでも特に小規模の会社である。編集に携わるスタッフの数も非常に少ない。もちろん人数が少ないことと、クオリティーが下がることに相関を持たせてはならないと思うのだが、日本語版「ハリー・ポッター」にかかわる諸問題は、流通上の批判も含めて、そのほとんどが取り扱う出版社の規模が小さすぎるからでる。それは単行本がまだ出始めの頃から言われていたことである。

 

ぼくは松岡佑子氏の訳そのものに批判的なわけではない。もしその邦訳が気に入っていなかったなら、これほど長く愛読することはなかっただろう。いちファンとしては、これを歴史に残る名著、古典として読み繋いでいくからには、そんな初歩的なミスはしてほしくないと思うわけである。

 

我が家の棚に収まる文庫版。
いろいろと課題はあるものの、棚を見上げるたびにニンマリする。