『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

【感想 / 考察】『図書館の大魔術師』第40話「室長からひと言(後編)」

この記事は作品の重大なネタバレを含みます。お読みになるかたはその点を充分ご承知おきください。

※本文内では、作中の用語を遠慮なく多用しています。

 

■ 感想 その前に

『図書館の大魔術師』が12/7(水)に更新された。今回はサブタイトルに「後編」が入っており、先月の掲載話で「前編・後編の表記がない」と指摘したけれど、単なる編集部のミスのようである。実際に書籍化するときには、サブタイトルに前編も後編も入らないので大した問題ではないのだが、気になる点がないでもない。

この作品、編集部によるミスがちょくちょく見られる。

まず、数箇所の表記ゆれが存在する。

今話でいえば、これまでずっと「魔術学園」だったものが「魔術学院」と表記されてしまっている。まったく別物かとも考えたが、背景の紋章が第32話のものと同一なので、これは編集のミスである。書籍化の際に修正されることを強く望む。

第32話より。

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今話。
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他には文法的なミスもある。

第6巻p.232のシオのモノローグである。

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国文法的には「すごい」は形容詞であり、この場合は副詞で「すごく既視感がある」にすべきである。次のコマでは正しく使用されているので、完全な見落としであると考えられる。「すごい」のあとは名詞が来るべきなので、直後の「既視感」にかかっていると考えれば文法上の間違いはなくなるのだが、そうすると今度は意味的に不自然である。残念ながら、書籍化されても修正されることはなかった。

新明解国語辞典によると「『すごい』」を副詞的に用いることもある」とされているが、現代の若い世代で最近とくに多い言い回しで、ある種のトレンドのようになってしまっているので、筆者のように気になる世代には非常に気持ち悪いのである。

こういった間違いを、もし作者自身が犯していたのだとしても、それを指摘し、入稿の段階で修正するのが編集部の役目ではないか。表記ゆれなどは担当編集者が過去話を読み込んでいれば起こり得ないミスである。こういったことがあると作品への愛を疑ってしまう。作品を担当するからには、その作品に読者並みの愛は持っていてもらいたいし、少なくとも文法的な間違いは正してほしいと思うのだ。

 

■ 感想:第40話「室長からひと言(後編)」

さて、今回は前半が渉外室室長との会話、後半が都の祭「福書典祭」に向けての動きである。ページ数も少ないし、渉外室室長トギトの辛辣なセリフや暗躍については考察の方へまわすとして、伏線として気づいた点を指摘しておこう。

トギトがシオに出した命題「魔術師と弟子」の話に出てくる“半分しか物事を知らない子供”のシルエットは、おそらくセドナ=ブルゥの幼少期である。服装と髪型が第32話の描写と一致するし、弟子を探している魔術師の杖も、セドナの師コマコ=カウリケが第13話で使用しているものと形が同一である。

今話。

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第32話より。
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ただ、その描写はシオにわかるはずもないので、これは完全に読者に向けての示唆である。

 

■ 考察:「シオ=フミスに室選択権は与えない」の真意

このところの数話というもの、渉外室室長トギト=エルガムスの動きが顕著である。その発言は辛辣で、とくにセドナへの当たりが強いようである。表情が読みづらいので、その真意がどこにあるのかもよくわからない。今話ではシオにも一見きつい物言いをしていて、ラストでは「シオ=フミスに室選択権は与えない」とまで言っているのだが、その発言の意味するところについて、少し検討しておこう。

繰り返しになるが、今話においてトギトがシオに向けて発する言葉は辛辣である。ただ、シオはこれまでの人生で幾度もひどい言葉を投げかけられてきた経緯があるので、トギトの言葉にショックを受けるというよりも、発言の真意を探るような表情であったが。

実際、トギトはシオの回答に対し「暗い」と評したわけだが、これを額面どおりには受け取れない。第28話で、トギトはセドナに対し「室長となったからには現実を悲観」し、「最悪を想定」しておけと伝えている。第38話では、室長となったセドナへ冷静な視点の重要性を説いている。そういった経緯を考慮すると、シオの回答を「最悪の発想」と断じたのは、最悪の事態が想定できているという、トギトなりの肯定的な評価とも考えられる。重要な書をシオが自身の機転で守ったのも、まぎれもない事実なので、今回トギトが見習いの授業に顔を出したのは、(シオが1人だけになるタイミングで)シオ=フミスがどういった人間であるのかを直接確かめようと思ったと言える。

それを踏まえると、最後の「室選択権を与えない」のセリフの真意が見えてくる。すなわち「シオ=フミスを自分のところ(渉外室)に取り込む」という意図ではないだろうか。

点数を操作できるのは自分の室の授業成績だけだが、室選択権は総合成績で上位3名にしか与えられないので、それで充分なのだろう。イシュトア先生は見習いの配属先を自分で決めると言っているが、メディナの件でもあるとおり、実際の人事にはそれぞれの室の意向が大きく働いている。上位3名に入りさえしなければ、室の要望をある程度ゴリ押しできると踏んでのことだと考えられる。

本編では渉外室の暗躍が示されたわけだが、これから各室が見習いを取り合って動き始める様子が描かれるかもしれない。シオは日々の課題をこなせるようになってから、成績がずいぶん向上しているようだし、そうでなくても担任たちから逸材と評されている。各室が欲しがるのは当然といえば当然である。

あとは、イシュトア先生がシオにテイとの仲介役を頼んでいるシーンだが、シオを呼び止めて何かを言いよどんでいるのが少し気になる。シオはアヤが図書館のマップを丸暗記するのにも付き合っているし、過労を心配しているのだろうか・・・。

 

第41話の感想・考察へ。⬇

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【感想 / 考察】『図書館の大魔術師』第40話「室長からひと言①②」

この記事は作品の重大なネタバレを含みます。お読みになるかたはその点を充分ご承知おきください。

※本文内では、作中の用語を遠慮なく多用しています。

 

■ 感想:第40話「室長からひと言」

11/7(月)に第40話が更新された。サブタイトルに前編・後編といった表記が入っておらず、①・②となっているので、この一話がどれくらいの長さになるのかがはっきりしないが、ひとまず今回の更新分は、前回までの一連の騒ぎを受けての、いったんの“谷間”といった印象である。

今話の流れを箇条書きで示していこう。

  • アフツァックと中央図書館の日常、群像
  • 仮面勢力の図書館内への浸透、事件当日のキラハの動き
  • 守護室ヨウ=シオウの植物への愛情
  • シンシア=ロウ=テイへの教育は順調らしい
  • アヤは方向音痴を克服すべく、図書館内の通路をまるごと暗記するつもり
  • 見習いの渉外室授業「選択言語学習」、シオはホピ語を選択
  • そこへ室長登場、次回へつづく

まず目に止まったのは、ヨウ=シオウの日常描写である。本編に登場してから一貫して無表情だったヨウが(驚愕の表情はあったが)、植物に対してだけ愛情を感じているというふうに描かれており、これまでのイメージに新たな側面が現れた。今後の展開に期待したいところである。

 

■ 考察①:渉外室実技 選択言語学

さて、見習いの教育課程における渉外室の授業が描かれた。各民族語への理解を深めるための「選択言語学習」の実技である。実際の言語学習でも本来そうあるべきだが、単なる文法・構文だけではなく、歴史的背景、文化・習俗、宗教、価値観などを総合的に学ぶ授業であるらしい。

はっきりと顔が示された見習いは2人だけで、テペルはラコタ語、アヤはクリーク語を選択している。テペルの隣の生徒はナレーションで隠れているが、髪型からしてサエのようでもある。テペルの性格からして、サエと同じ選択をして隣でおせっかいを焼いている(ようなサポートをしている)のかもしれない。

アヤの選択がクリーク語なのは、やはりラコタ族の歴史に対する意識からであろうと理解できる。

この選択言語が1つだけなのかどうかはまだわからない。描写的には自分の母語とは別の言語を1人1つ選択しているようだが、あれだけ優秀な子女が集っているのだから、希望によって複数選択もできるかもしれないが、これは大した問題ではない。

我らが主人公シオは、やはり自分のルーツにかかわるからかホピ語を選択したようだが、気になるのはホピ語の授業を受けているのがシオひとりだけであるという描写である。第12話の注釈で、三大言語とはラコタ語・ホピ語・ヒューロン語であると解説されているが、そうであるからには、ホピ語の選択者はもっと多くてもいいはずである。ところが実際にはそうはなっていない。

ホピ族は、かつてヒューロン族による大虐殺があった事実は劇中で繰り返し語られるが、その民族そのものについては、まだほとんど語られていない(ただし、多くが語られていないのは他の民族についても同様である)。そもそも同じ見習いに純粋なホピ族はゼロであるし、中央図書館関係者でも、ここまでで登場したホピ族は渉外室長トギト=エルガムスだけであり、第5巻の幕間では冒険者の記述として「引きこもり」とあるように、現在のホピ族は基本的に大陸政治や中央の動きには不干渉的な姿勢のようである。ひょっとしたら次話以降、渉外室の室長とシオとの会話で詳細が少しは判明するかもしれないが、シオのアイデンティティーにもかかわることなので、大きな動きはなかなか難しそうである。

ホピ族の「性器崇拝」について、わりと際どい描写があったが、現実の宗教でも例えば子宝祈願等で、男性器・女性器を模した偶像は存在するので、至極真っ当なことなのだが、一般商業誌で出てくるとちょっとびっくりする。昨今の何にでもすぐ批判をする風潮に対して、作者があえて挑んでいるようにも取れる。

 

■ 考察②:私達は物語の中を生きている

今話の冒頭にある「私達は物語の中を生きている」という表現が作中に出てきたのは二度目である。

一度目は第31話のガナン=キアシトのセリフだった。幼いシオの、自分の読んだ物語が創作であるとわかっているのに悲しくなるのはなぜか、という問いに対して、人間が発展してきたのは物語や伝説に対して本気(マジ)になれるからだ、と返した。その流れでの発言である。

どちらの場面でも、キャラクター同士の対話として発せられているわけだが、このセリフはこの『図書館の大魔術師』という物語にとって極めて暗喩的である。

この作品は、ソフィ=シュイムが書いた『風のカフナ』という物語である(という建前となっている。実際は泉光のオリジナルだが)。第1巻の冒頭の辞は「この物語を 私の英雄のために」という“原作者”ソフィ=シュイムの言葉が使われており、その英雄とはほぼ間違いなくシオである。第39話の最後でソフィがシオに対して、シオの想いを物語にするときは協力すると申し出ており、最後すべてが終わったあとに、ソフィが作家として英雄シオの物語を残すことになるのだろう。

ただその場合、タイトルが『風のカフナ』であることが気にかかる。シオは水のマナを体内に有しているので、シオ自身が風を操るカフナになれるわけではない。これはこの物語の謎のひとつではある。

第1部の最後は「進もう 僕は 僕という物語の主人公なのだから」と結ばれている。主人公シオは、自らの手で自身の物語のページをめくり、進んで行く。ソフィによって作品となったのちは、彼・彼女らの世界でシオの物語が読まれる。そして、われわれ現実の読者は確かにシオの物語を読んでいる。そのすべてが、「物語の中を生きている」と言えるのかもしれない。

 

後編へつづく。⬇

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【感想 / 考察】『図書館の大魔術師』第39話「百年の孤独(後編)」

この記事は作品の重大なネタバレを含みます。お読みになるかたはその点を充分ご承知おきください。

※本文内では、作中の用語を遠慮なく多用しています。

 

■ 感想:第39話「百年の孤独(後編)」

『図書館の大魔術師』コミックDAYS版の更新は、週末になる場合を除いて、これまでほとんどが毎月7日なのだが、今回は平日であるにもかかわらず6日だった。このブログのアクセス数が10月6日に妙に増えていたので、もしやと思いアプリを開いてみたら案の定、最新話が更新されていた。油断大敵である。

今回で第39話がようやく終了した。前回、中編の感想のときに「第39話は長くなりそう」と言ったが、後編は扉ページを除いて13ページ、合計で60ページとなり、最終的には予想に反して標準的なページ数となった。一話の分量だけ考えると、わざわざ前・中・後編に分けるほどではないはずなのだが、あらためて振り返ると、ページ数の割に情報量の多い回となった。ただ一方で、明らかになるかと思われたこと(七大魔術師の真実やクランとセドナの関係などなど)が伏線として残されたままではあるのだが。

あと、もともとキャラクターの表情だけでセリフの無い、いわゆる「間」のコマが多いマンガではあるのだが、今回は特にその「間」が多用されていた印象である。

今回で明らかになったポイントをまとめると次のようになる。

  • ココパ族の英雄パーサーはすでに死亡していた
  • 仮面勢力のゾーロとパーサーの側近ビレイはおそらく同一人物
  • シオがセドナから借りた本はコマコが造った(書いた?)

中編でオウガが「大魔術師様達もまだまだ健在」と言っていたり、24話でも守護室のニル=カンウが「パーサー様はご健在だ」と強調していただけに、「傀の大魔術師」が死亡してすでに数年が経過しているという事実は非常に不穏である。

そして、側近のビレイ=ヴァンポイーズがレオウの仮面勢力の一員ゾーロと同一人物であるなら(髪型や仕草からその可能性は非常に高く、ほぼ確定に近いが)、彼は仮面帝国再興の企てに協力している風を装いつつ、実際には現体制の崩壊後、その混乱に乗じてココパ族が(もしくは彼自身が)覇権を握ることを企図しているかのような印象を受ける。

ビレイを「彼」としましたが、男性か女性かの断定はまだできません。ただし、他のココパ族の女性の名前から推測するに、おそらく男性ではないかと。

そもそも、カドー族の村で困窮していたシンシア=ロウ=テイを、どうしてココパ族のビレイが見つけてきたのか。これはおそらく今後の物語の根幹に関わる謎である。そして、ココパ族の英雄の死が自治区の中で秘匿されていることから、他の自治区でも大魔術師の生存が疑問視されるようになってきた。長期暦アレマナカの終末を待つまでもなく、各民族の英雄の死は自治区のパワーバランスに大きな影響を与える。今後も注視すべきポイントである。

 

■ 考察:サブタイトル「百年の孤独」の真意

シオのモノローグによると、かつて「ニガヨモギの使者」襲来から世界を救った七大魔術師の伝説は真実ではなく、その真相が書かれている書こそ、シオがセドナから借りた本の内容である。この第39話で、その本はそもそもコマコが造ったらしいことが明らかになった。

劇中でシオが言っているとおり、その真相が世の明るみに出ると、大魔術師たちの人望が基礎となっている現在の体制が一気に瓦解し、民族対戦が再燃する恐れがある。いま一般に信じられている「大魔術師伝説」は戦争を終結させるための一種の方便であったとも考えられ、それゆえにコマコをはじめとする大魔術師たちは、まさに「巨大な」秘密を抱えたまま、民衆の前で英雄として振る舞わなければならなかったのである。

「理の大魔術師」の殉職を受けて、残り6人の大魔術師たちは世界の再建を託された。当人たちにとっては戦いから逃げてきた負い目もあり、英雄然とした振る舞いは誠に不本意であったはずである。コマコがよく「偉そうにする仕事」と言っているのもそのあたりが理由と考えられる。

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それでも、ソフィの言うとおり、「楽しいことも 悲しいことも 全部乗せて 前に進むため」に、その真実を物語として残すことで本来の自分を押し殺し、英雄としての姿を演じてきたのだろう。それほどの秘密をかかえるのは、まさに非常に孤独なことであり、コマコらがそうして生きてきたおよそ100年を指しての、タイトル「百年の孤独」ではないかと筆者は思うのである。

 

第40話の感想・考察へ。⬇

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