※この記事は作品の重大なネタバレを含みます。お読みになるかたはその点を充分ご承知おきください。
※本文内では、作中の用語を遠慮なく多用しています。
■ 感想:第40話「室長からひと言」
11/7(月)に第40話が更新された。サブタイトルに前編・後編といった表記が入っておらず、①・②となっているので、この一話がどれくらいの長さになるのかがはっきりしないが、ひとまず今回の更新分は、前回までの一連の騒ぎを受けての、いったんの“谷間”といった印象である。
今話の流れを箇条書きで示していこう。
- アフツァックと中央図書館の日常、群像
- 仮面勢力の図書館内への浸透、事件当日のキラハの動き
- 守護室ヨウ=シオウの植物への愛情
- シンシア=ロウ=テイへの教育は順調らしい
- アヤは方向音痴を克服すべく、図書館内の通路をまるごと暗記するつもり
- 見習いの渉外室授業「選択言語学習」、シオはホピ語を選択
- そこへ室長登場、次回へつづく
まず目に止まったのは、ヨウ=シオウの日常描写である。本編に登場してから一貫して無表情だったヨウが(驚愕の表情はあったが)、植物に対してだけ愛情を感じているというふうに描かれており、これまでのイメージに新たな側面が現れた。今後の展開に期待したいところである。
■ 考察①:渉外室実技 選択言語学習
さて、見習いの教育課程における渉外室の授業が描かれた。各民族語への理解を深めるための「選択言語学習」の実技である。実際の言語学習でも本来そうあるべきだが、単なる文法・構文だけではなく、歴史的背景、文化・習俗、宗教、価値観などを総合的に学ぶ授業であるらしい。
はっきりと顔が示された見習いは2人だけで、テペルはラコタ語、アヤはクリーク語を選択している。テペルの隣の生徒はナレーションで隠れているが、髪型からしてサエのようでもある。テペルの性格からして、サエと同じ選択をして隣でおせっかいを焼いている(ようなサポートをしている)のかもしれない。
アヤの選択がクリーク語なのは、やはりラコタ族の歴史に対する意識からであろうと理解できる。
この選択言語が1つだけなのかどうかはまだわからない。描写的には自分の母語とは別の言語を1人1つ選択しているようだが、あれだけ優秀な子女が集っているのだから、希望によって複数選択もできるかもしれないが、これは大した問題ではない。
我らが主人公シオは、やはり自分のルーツにかかわるからかホピ語を選択したようだが、気になるのはホピ語の授業を受けているのがシオひとりだけであるという描写である。第12話の注釈で、三大言語とはラコタ語・ホピ語・ヒューロン語であると解説されているが、そうであるからには、ホピ語の選択者はもっと多くてもいいはずである。ところが実際にはそうはなっていない。
ホピ族は、かつてヒューロン族による大虐殺があった事実は劇中で繰り返し語られるが、その民族そのものについては、まだほとんど語られていない(ただし、多くが語られていないのは他の民族についても同様である)。そもそも同じ見習いに純粋なホピ族はゼロであるし、中央図書館関係者でも、ここまでで登場したホピ族は渉外室長トギト=エルガムスだけであり、第5巻の幕間では冒険者の記述として「引きこもり」とあるように、現在のホピ族は基本的に大陸政治や中央の動きには不干渉的な姿勢のようである。ひょっとしたら次話以降、渉外室の室長とシオとの会話で詳細が少しは判明するかもしれないが、シオのアイデンティティーにもかかわることなので、大きな動きはなかなか難しそうである。
ホピ族の「性器崇拝」について、わりと際どい描写があったが、現実の宗教でも例えば子宝祈願等で、男性器・女性器を模した偶像は存在するので、至極真っ当なことなのだが、一般商業誌で出てくるとちょっとびっくりする。昨今の何にでもすぐ批判をする風潮に対して、作者があえて挑んでいるようにも取れる。
■ 考察②:私達は物語の中を生きている
今話の冒頭にある「私達は物語の中を生きている」という表現が作中に出てきたのは二度目である。
一度目は第31話のガナン=キアシトのセリフだった。幼いシオの、自分の読んだ物語が創作であるとわかっているのに悲しくなるのはなぜか、という問いに対して、人間が発展してきたのは物語や伝説に対して本気(マジ)になれるからだ、と返した。その流れでの発言である。
どちらの場面でも、キャラクター同士の対話として発せられているわけだが、このセリフはこの『図書館の大魔術師』という物語にとって極めて暗喩的である。
この作品は、ソフィ=シュイムが書いた『風のカフナ』という物語である(という建前となっている。実際は泉光のオリジナルだが)。第1巻の冒頭の辞は「この物語を 私の英雄のために」という“原作者”ソフィ=シュイムの言葉が使われており、その英雄とはほぼ間違いなくシオである。第39話の最後でソフィがシオに対して、シオの想いを物語にするときは協力すると申し出ており、最後すべてが終わったあとに、ソフィが作家として英雄シオの物語を残すことになるのだろう。
ただその場合、タイトルが『風のカフナ』であることが気にかかる。シオは水のマナを体内に有しているので、シオ自身が風を操るカフナになれるわけではない。これはこの物語の謎のひとつではある。
第1部の最後は「進もう 僕は 僕という物語の主人公なのだから」と結ばれている。主人公シオは、自らの手で自身の物語のページをめくり、進んで行く。ソフィによって作品となったのちは、彼・彼女らの世界でシオの物語が読まれる。そして、われわれ現実の読者は確かにシオの物語を読んでいる。そのすべてが、「物語の中を生きている」と言えるのかもしれない。
後編へつづく。⬇