『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

文体について

このブログをお読みいただいているかたはもうご承知であろうと思いますが、ぼくの書く記事には文体が常体のものと敬体のものがあります。

常体で書く文は、基本的にひと様にお見せするための文、作品としてある程度の完成度を求めたものにしていきます。その場の思いつきでどんどん更新していくのではなく、自分なりに納得のできる仕上がりにしてから公開します。出来の良し悪しの評価については読者のみなさまにおまかせいたしますが……。

一方で、ぼくが敬体で文を書くときは、読んでくださっているかたに語りかけるというか、とくに目的もなく、思いつくままに書いています。「思いつくままに書いている」なんて言うとどこのエッセイストかと思いますが、実際はそういう時というのは、つまり煮詰まって上手く書くことがまとまらない時なんです。かの『サザエさん』の作者、長谷川町子も新聞の連載でアイデアに煮詰まって話が作れない時は作者自身を登場させていたそうですから(だれと比べてるんだか……)。

ほんとうは文体を統一してしまったほうが良いのでしょうが、ぼくの中での気持ちの問題というか、これはもうノリですね。ただ、ひとつ言えることは、文章表現のしやすさの問題です。

ぼくが自分の文のお手本としているのは「リンボウ先生」こと林望先生で、『イギリスはおいしい』『イギリスは愉快だ』『リンボウ先生 イギリスへ帰る』の3部作は、ぼくが目標としているところです。恐れ多い話です。

 

 

林先生は『リンボウ先生の文章術教室』のなかで、文章は原則的に常体であって、敬体は例外と考えるべきである、と言っています。常体は男性的で敬体は女性的、といったような印象の話ではなくて、実はきわめて技術的な問題なのです。それは、敬体の文章は形容詞が上手く取り扱えないということ。

つまり文の締めくくり、叙述部分に形容詞がきたときに、過去形がどうにも稚拙な印象になってしまうのです。「美しい」という形容詞を常体で過去形にすると、単純に「美しかった」になりますが、これを敬体で書こうとすると「美しかったです」とするしかない。「美しいでした」なんてもってのほかだし、あとは「美しい◯◯でした」と途中に名詞をはさむしかなくなるのです。

 


過去に書いていたぼくのブログはすべて敬体でした。正直な話、文を書き始めると敬体のほうが書きやすいのです。それはきっと、普段の口調と同じ感じで書けるから。

 

現に、世にあふれるブログもSNSも、ほぼ例外なく敬体で書かれているし、いわゆるビジネス書も、新刊はほぼすべて敬体。これが意味することろはつまり、書くほうにとってお手軽なのです。普段、日常的に話し言葉として使っている口調をそのまま文字にするだけなので、非常に楽です。それが今のトレンドだと言ってしまえばそれまでなのですが。

 

ただ、ぼくはこのブログをより本格的に再始動することにしたので、本気で文を書くときは常体にする、と自分に課しているという次第です。

 

 

今後の更新予定ですが、いま準備しているのは3本あります。タイトル(仮)だけお知らせしておきましょう。

「私立入試と道路標識」
中3の、高校受験のときの話です。私立入試がまだ全然深刻でなかった時代です。

季節ものでもあるので、なるべく1月中に載せてしまおうと思っています。

「ちくしょう! 中から鍵がかかってやがる!」
そんなに山ほど本を読むわけでもないけれど、古典的ミステリ小説における表現方法に対する、昔から抱いている疑問についてです。

いつ書き上がるかの予定は未定です。

「きみは白凰学舎を知っているか」
どローカルな話を何か書きたいと考えていて、思いついたものです。いまぼくは塾の講師として働いていますが、おそらくその原点となった場所だと思います。通っていたにもかかわらず、生徒からすると非常に謎の多い塾でした。
世代によって経験したスパルタの程度が異なるので、この記事を書くことで、あわよくば元塾生のコミュニティみたいなものが生まれないかなァなんて野望を抱いてみたり。


なにはともあれ、これからもどうぞよしなに。