『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

選挙のたびに思うのですが

■ あんなに長くなくてもいい

選挙特番というものは、あまり好んで見たりいたしません。

 

ひとつには、あれだけ長時間にわたって放送し続けるほどの価値が、番組そのものに無いということです。午後8時に投票所が締め切られるやいなや、各局で開票速報が出るわけですが、出口調査がこれだけ大規模に行われるようになると、特番の放送開始とともに体勢が判明してしまって、最初の10分も観てしまえば、あとはちょくちょく各局を渡り歩くだけでおおまかの状況は理解できてしまう。

 

なおかつ、各政党の選挙対策本部や、大物だったり話題となった候補の選挙事務所などと中継が繋がっているのですが、どういうわけか、選挙を取り仕切はずの党幹事長や、候補者本人が最初から事務所に詰めているということがまずない。政治家本人のコメントは、開票が進んでしばらくたって、中継場所に当人たちが現れてからとなるので、しばらくはスタジオにいる政治評論家であったりジャーナリストであったりのコメントを聞いたり、有権者の声と称して巷のインタビューVTRを見たりすることになるのです。

 

政治特番の進行を、芸人や俳優がするのもどうかと思うし、くだんの評論家やジャーナリストという人たちも、なんだか年々うさんくささが増しているようで、コメントもなんだかよく分からないというか、奇をてらったような発言が多くて、そのうえ自身の正義を露ほども疑わない人たちなわけで、正味な話が気持ちが悪いのです。

 

どうでもいいことですが、よく司会者が「今回の選挙を一言で表すと?」などと質問して、それにゲストのコメンテーターがフリップなどに手書きでもって書いたものをバンと出すわけですけれども、その文字が読みやすかったためしがない。なんだか細いヒョロヒョロの字だったり、なぜだかフリップの隅のほうに書いてみたり。もうちょっとテレビ映りというものを意識しようよ、と何度テレビに向かってつぶやいたことでしょうか。

 

 

■ 取ったのは言質か、揚げ足か

上の段で“放送の価値”と言いましたが、選挙特番を放送する価値について、テレビ局自体も出演者も、なにか勘違いをしているように思います。

 

テレビ局のスタジオにいるキャスターや、コメンテーターとして呼ばれている評論家諸氏は、中継で繋がった先の当選者あるいは大物の落選者、そして各政党の党首や幹事長といった党の“顔”となっている人物たちにいろいろと質問します。筆者に言わせれば、そのやりとりが下品。

 

スタジオの連中は、政治家から確約の言質を取ろうとして、痛いところを突く質問をしたり、相手をイラつかせて失言を引き出そうと、わざと失礼な物言いをする。政治家が、しつこい追及に辟易して本音を漏らしたり、失礼な質問に怒って生放送で失言したりするのをはじめから念頭に置いているのだから、キャスターもジャーナリストも評論家も卑怯だと思うし、なによりその感覚が下品だと思うのです。

 

かつて、そういった不用意な発言・失言で、時の内閣が倒れたことがありました。もう30年ちかくも前、当時首相の宮澤喜一田原総一朗に対して感情的になり、選挙制度改革を「やる」と明言したものの、党内がまとまらず最終的に衆議院解散、多数の造反・離党が出て自民党は野党となり、いわゆる55年体制が終焉をむかえることとなりました。

 

つまり、みんなそのクチで、我こそは次の政局をもたらした立役者だと言いたいがための、自身の功名心以外の何者でもないのです。それでいて、自分たちは国民の意見を代弁している、国民が聞けないことを直接聞いているのだという正義感で物を言っているのだから始末が悪い。気持ちの悪さというのは、つまりそういうことです。

 

そもそもね、政治家などというものは古今東西、はっきりとした物言いはしないものなのですよ。そんなことは大平さんの時代から当たり前のことではありませんか。まァ、思わず大平さんを例に出しましたが、「アーウー」だなんだと言われた大平さんですけれど、間投詞を除いて文字に起こしたら、きちんとした文章になっていたそうですし、ご本人も言っておられましたが、長く外務大臣を務めた身として、その発言が各国の政府にも注視されている以上、下手な発言はできず、慎重にならざるをえないのであるからして、結果的に「アーウー」となったのだそうで、そう考えると、不用意で迂闊な物言いをする人が多い昨今の政治家に比べて、よほど見識があったと言えるでしょう。