追悼:柳家小三治
■ 追悼
ぼくなどが小三治師匠のファンだなどと公言するのは、長年のファンのかたたちに申し訳ない気持ちになるのですが、忘れないうちに気持ちを書いておきたいと思います。
■ はじめての落語
落語を聴き始めたのは大学生になりたての頃で、だからまだまだ20年にもなっておりません。
落語協会と、たしかGYAOの連動企画で、インターネット落語会のようなものがあったのですが、それがきちんと落語を聞いた最初でした。こちらも先年お亡くなりになった三遊亭圓歌師匠で、8分バージョンの『中沢家の人々』でした。腹を抱えて笑うとはこのことで、のちに「完全版」を手に入れました。いまでもPCやiPhoneに入っています。
もっと元をたどると、高校2年のとき、オーストラリアで3週間のホームステイを終えて、その帰りの全日空機の中で無限ループで聴いていたのが本当の最初でした。
古今亭ナントカという人で、演目は「寝床」でした。シドニーから関西国際空港までの十数時間、まわりのクラスメイトは帰国を楽しみにオーストラリアの思い出を延々と語り合っていましたが、ほくは誰と話すでもなくひたすらに聴き続けました。たぶん今はもう、名前も変わっていて、あれがどなただったのかわからないのが残念です。
■ 米朝と枝雀
当時ネットメディアへの露出が東京落語のほうが多かったのか、上方落語に触れたのは少しあとでした。
上方落語はおもにDVD化されているものを見ました。最初は桂米朝師匠のを見ていましたが、その流れで次に桂枝雀師匠に出会い、あの天才の存在を知りました。米朝師匠の、いわゆる正調を見てからだったので、今にして思えばそれが正解だったのかもしれないと感じています。
でも、どっちがどっちというワケでもないのです。どちらもおもしろいのです。
■ 立川談志
大学を卒業して少しした頃に、立川談志師匠が無くなりました。ぼくは残念ながら、談志の落語がおもしろいと言える境地に、まだ達しておりません。
米朝師匠も枝雀師匠も、落語初心者でもわかりやすく笑わせてくれるのですが、談志師匠の落語は、見る側にも教養というか、ある種の知識を求められていて、「おれのを見るならそれなりに覚悟を持てよ」「どうだ、おれの落語がわかるか。本当に理解して笑っているか」と暗に言われているような気がして、やはり“通”向けように感じています。いずれ、屈託なく笑えるような大人になりたいものだと思います。
■ そして小三治
小三治師匠の落語は、現在ご存命のかたのなかで、文句なく最高峰だと思っていました。いまはネットをとおして、まさに古今東西の落語を見聞きすることができて、それこそ志ん生、圓生、文楽、どうかすると初代・春團治の音源だって聞くこともできるワケですが、そんな過去の名人と並べても引けを取らない、まさしく当代の名人だと思います。ですから人間国宝、大変結構だと思います。
名演は数々あることは分かっていますが、そのなかでも師匠の追悼として取り上げておきたいのが、師匠が30年ほど前に英語の勉強をするためにアメリカへ渡航した時の話をまとめた『ニューヨークひとりある記』と『めりけん留学奮闘記』です。『ニューヨーク』が前編で、『めりけん』が後編となっています。
師匠がちょうど50歳のときで、まず第一に声が良い。30年前ということは、まだ先代の小さんが落語協会の会長として現役でしたし、同世代である志ん朝、圓楽、そして談志が次世代のトップを走っていたし、上方には四天王とされる中興の祖たちがまだ60代、落語家としてもっとも円熟する時期であったということで、小三治師匠自身がまだまだこれからどんどん良くなっていくことが分かっていた、そんな時代だと思います。
なおかつ、古典落語特有の時代感ではなく、舞台がアメリカですから、コテコテのファンでなくとも入っていけた。ぼく自身が海外への渡航経験があるので、情景の想像が容易であったということで、非常におもしろい。ぼくが持っているのは音源だけですが、もし映像があるならぜひ見てみたいと思います。いや、もちろん音声だけでも死ぬほどおもしろいのですが。
昭和から活躍する芸人さんが、また1人、あの世に旅立ちました。非常に悲しい限りですが、あとの世代にこのおもしろさを伝えることが自分たち世代の役割だと思って、落語を聴き続けたいと思います。