『図書館の大魔術師』考察ブログ

~しがないつぶやき【Z:sub】~

左手の紙コップ

大学4年の文化祭の日であった。

 

当時ぼくは、「香川大学ゼミナール連合協議会(通称“法ゼミ連”)専務理事」などという物々しい肩書きが付いており、ある種の学生自治会の代表のようなことをしていた。

 

組織そのものはすまだまだすこぶる不完全ではあったのだが、中学や高校の生徒会室のように専用の部屋(ゼミ連室)があり、ぼくは講義に出席するとき以外はほとんどそこに「常駐」していた。

 

その日も、朝からゼミ連室に詰めており、その間、学生が何人か出入りするのを見送っていたのだが、あるとき、ドアをノックする音がした。通常、学生ならばそのまま中に入ってくるのはずだが、いっこうにドアが開かない、首をかしげながら出てみると、見知らぬ中年の男性が立っていた。

 

中背で小太り。白髪まじりでメガネをかけていた。白いワイシャツにグレーのスーツ。ネクタイはしていなかった。そんな、どこにでもいるようなオッサンだったのだが、唯一目を引いたのは、左手に紙コップのコーヒーを持っていたということだ。オッサンは、人の良さそうな笑みを浮かべて言った。

 

「見学しているうちに建物から出られなくなったので、出口まで案内してほしい」

 

学祭の期間中は、不特定多数の人物が出入りするために、学部棟などは施錠されている。学生なら、学生証を兼ねているカードキーを使って出入りできるし、教職員も同様である。ただし、出入り口に複数の人間がたまった場合、ひとりがキーを使って開けたら、そのままついでに全員入るというのはよくあることである。

 

だから、外部の見学者がそうやって入ってしまって、外に出られなくなるというのは、ケースとしてありうるのである。ぼくは特に疑問に思うでもなく、その男を玄関に誘導し、鍵を開けて外に出してやった。にこやかに会釈までして。

 

やれやれ、と思ってゼミ連室に戻ったのだが、ものの5分もしないうちに再びドアがノックされた。応対に出ると、学部の教授だった。ゼミ連とのやりとりで窓口を担う教務委員の教授で、ぼくとも面識があったのだが、その教授が学生課から連絡があったからと、こんなことを言った。

 

「他の学部で『空き巣』があったそうですから、学生の皆さんも貴重品の管理には気をつけてくださいね」

 

その瞬間ぼくの脳裏には、あの人の良さそうなオッサンの笑顔がよぎった。

 

・・・アイツだっ!

 

学祭のメイン会場から離れていて、おまけに施錠までされている学部棟に一般人が迷い混むなどという状況は、よくよく考えれば不自然な話なのだ。

 

学祭でみんなが出払っていて、学部棟はガランとしている。大学の教授などというのは施錠に無頓着な人もいるので、空き巣には絶好の機会だったのだろう。

 

実は、その前年まで、カードキーは入るときにしか必要なくて、さきほど言ったような手順で他の学生のついでに入ってしまえば、出るときにキーは必要なかったのである。

 

それが次の年度からセキュリティが強化され、外出するにもキーが必要となった。だからこそ、あのオッサンは顔を見られるリスクを侵してでも誰かに外に出してもらう必要があったのだ。

 

まァ、研究室にある金目のものといったら、教授の財布と携帯電話をのぞけばノートPCくらいのものだが、とりあえず、ぼくの記憶にあるかぎり、あのオッサンは手ぶらであった。あの左手の紙コップは、人畜無害な一般人を装うための小道具だったのだろう。

 

事実、後でわかったことだが、法学部では被害は出ていなかったそうだから、その点は安心してもよかったのだけれど、あの場で不審者を取り逃がしたのは返すがえすも不覚であった。

 

もちろん、あのオッサンが空き巣であったという証拠は何もない。もしかしたら本当に迷い込んだだけの善良な見学者だったのかもしれない。真相は藪の中である。

 

しかし、本当の泥棒というのは、極力印象に残らない格好と雰囲気を持っているものなのだということは、後学のために覚えておくことにしよう。